最高裁判所第一小法廷 昭和47年(行ツ)33号 判決 1974年4月25日
上告人
保土谷化学工業株式会社
被上告人
特許庁長官
上記当事者間の東京高等裁判所昭和45年(行ケ)第101号審決取消請求事件について、同裁判所が昭和47年1月25日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人原増司、同福島栄一の上告理由第2の1、2について。
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照し、正当として是認するに足り、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の認定に沿わない事実を合わせ主張して、原審の専権に属する事実の認定を非難するに帰し、採用するに足りない。
同第3、4について。
商標の類否判断に当たり考慮することのできる取引の実情とは、その指定商品全般についての一般的、恒常的なそれを指すものであって、単に該商標が現在使用されている商品についてのみの特殊的、限定的なそれを指すものではないことは明らかであり、所論引用の判例も、これを前提とするものと解される。そして、原審が、本件の商標類否の判断に当たり、その指定商品の染料、顔料及び塗料につき広く一般消費者を対象とする家庭用のものが販売されているという顕著な事実を考慮にいれたのは、上記見解に立つものというべく、もとより正当であり、その点に所論の違法はない。なお、上記見解によれば、上告会社の現在の生産及び販売の方針がそのまま永く続けられるとの事実の存否は、本件の商標類否の判断に当たり考慮すべきものではないから、上記事実を認定しえないとした原審の判示は、傍論にすぎず、これを非難する所論は失当である。論旨は、いずれも、採用することができない。
同5について。
所論の点に関する原審の認定判断は正当で、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、独自の見解に立脚するものにすぎず、採用するに足りない。
よって、行政事件訴訟法7条、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
(岸上康夫 大隈健一郎 藤林益三 下田武三 岸盛一)
(昭和47年(行ツ)第33号 上告人 保土谷化学工業株式会社)
上告代理人 原増司、同福島栄一の上告理由
第1 総論
1.事件の経過
上告人は昭和41年10月18日原判決別紙第1記載の商標(以下「本件商標」という)について、第3類「染料、顔料、塗料(電気絶縁塗料を除く)、印刷インキ(謄写版用のインキを除く)、くつずみ、つや出し剤」を指定商品として登録出願をしたところ(昭和41年商標登録願第60685号)、審査官は昭和43年6月15日登録第595188号にかかり、第3類「染料、顔料、塗料(電気絶縁塗料を除く)」を指定商品とする原判決別紙第2記載の商標(以下「引用商標」という)を引用して拒絶査定をしたので、上告人は上記査定を不服として審判を請求したが(昭和43年審判第6302号)、審判官は昭和45年8月5日「本件審判の請求は成り立たない」との審決をなした。
しかしながら、上記審決は違法と思料されたので、上告人は同年10月17日東京高等裁判所に上記審決取消の訴を提起したところ(昭和45年(行ケ)第101号)、同裁判所は昭和47年1月25日「原告の請求を棄却する」との判決(以下「原判決」という)をなしたが、その理由の要旨は、「本件商標と引用商標とは、外観上類似のものであって、指定商品も共通のものがあるから、これらを付した商品の出所について相互に誤認混同のおそれがあるものというべく、本件商標は、商標法第4条第1項第11号により、その登録を拒絶すべきものである」というのである。
上記拒絶の理由として引用された商標法第4条第1項第11号は、「当該商標登録出願の日前の商標登録出願に係る他人の登録商標又はこれに類似する商標であって、その商標登録に係る指定商品又はこれに類似する商品について使用するもの」について商標登録を受けることができない旨を規定しているものである。
2.リーデイングケース
以上事件の経過でも明白なように本件は、商標法第4条第1項第11号の「商標の類否」に関するものであるが、この点に関する基準的判決は、最高裁判所第3小法廷が昭和43年2月27日昭和39年(行ツ)第110号事件についてなした判決(民集第22巻第2号第399頁。以下単に「最高裁判決」という)であって、その要旨は、「商標の類否は、対比される両商標が同一または類似の商品に使用された場合に、商品の出所につき誤認混同を生ずるおそれがあるか否かによって決すべきであるが、それには、そのような商品に使用された商標がその外観、観念、称呼等によって取引者に与える印象、記憶、連想等を総合して全体的に考察すべく、しかもその商品の取引の実情を明らかにしうるかぎり、その具体的な取引状況に基づいて判断するのを相当とする」というのであり、事案は、糸一般を指定商品とし「しょうざん」の称呼をもつ商標と硝子繊維糸のみを指定商品とし「ひょうざん」の称呼をもつ商標とでは、上記両商標が外観及び観念において著しく異なり、かつ硝子繊維糸の取引では、商標の称呼のみによって商標を識別しひいて商品の出所を知り品質を認識するようなことがほとんど行なわれないのが実情であるときは、両者は類似でないと認めるのが相当であるとしたものである。
3.商標の類否の判断
商標は商品の取引において、営業者がその商品について有するグッドウイル信用を、文字、図形等に化体したもので、その有する機能のうち最も重要なものは「出所表示の機能」である。そして商標法は、商標の類似する場合について幾多の規定を有しているが(第4条、第7条、第8条、第37条等)、その趣旨とするところは、いずれも商品の取引において、2つの商標の構成が著しく近似し、取引者、購買者等が商品の出所について混同誤認し、その選択の自由を害されることを防ぎ、またそれによって一方の当事者がその商品の取引について有するグッドウイルを不当に侵奪せられることを防止せんとするものである。従って2つの商標が類似するかどうかの判断は、まさに最高裁判決のいうとおり、その商品の取引の実情を明らかにしてその具体的な取引状況のもとにおいて、両商標が取引者に与える印象、記憶、連想等を総合して考察した場合、果して一の商品の出所が、他のそれと同一であると誤認混同を生ぜしめるかどうかによって決定せられるべきである。
そしてこのことは、当然に商標法上商標の類否の判断は、かの意匠法上意匠の類否を判断する場合とは著しく異なり、単に両者を機械的に比較対照して、その幾何学的の異同により、その商品の取引とは何らの関係も持たない判断者のいたずらな観念によって決定されるべきではなく、あくまで証拠によって認めた、その取引の実情を基として決定されなければならないことを意味する。商標の類否の判断についてなされる判決のすべては必ず「離隔的観察によるに」というが、その大半は当該商品の取引とは何らの関係もない裁判官が、両商標を単純に機械的に比較考察して、その共通部分を抽出して「類似の範疇を出でるものでない」と判断するのが実情であって、かかる観察は、商標法が要請する「離隔的観察」であるよりも、意匠法上の「機械的、幾何学的観察」というに近いものといわなければならない。
4.商標の類否判断の基準時
商標法第4条は商標登録を受けることができない商標についての規定であるが、その第3項は「第1項第8号、第10号又は第15号に該当する商標であっても、商標登録出願の時にそれぞれ同項第8号、第10号又は第15号に該当しないものについては、これらの規定は適用しない」と規定している。その意味はこれら各号にあたる場合、例えば第10号のいわゆる周知商標についていえば、出願当時に周知商標であるものについてのみ登録を拒絶することを規定したものであって、出願の後において周知商標となっても、そのことは考慮に容れないことに定めたものである。これに対し第1項各号中それ以外の場合にあっては、登録時、厳格にいうならば登録査定時において、これら該当事由の有無を審査し、これら各号に該当しないと判断されるならば登録査定をしなければならないものである。そしてこれら審査にあたり将来これら事由に該当するに至るかもしれないなどということは、理論上、審査の客体になるものでなく、また事実上することもできないものである。いわんや出願人に将来かかる事情の起きないことの証明を求めるが如きは不可能を強いるものに他ならない。
5.グッドウイルの侵害
商標の類否が最も端的に表われるのは、その商標によって化体せられる商標権者のグッドウイルの侵害である。もしある商標の使用が商標権者のグッドウイルの侵害を形成する場合、商標権者がこれを知りつつ放置することはあり得ない。商標権者は他人の使用している商標が客観的には自己の商標と類似しない場合においてすら、しばしば類似するものとして警告を発し、自己の商標権の防衛を計るため翼々たるのが現代における商標管理の実情であり、取引の慣習である。このことは裏返えせばこの最も深い関心を抱く商標権者が他人の商標の使用に対し何らの異議をも申し立てず、これを放置、是認することは、他に格別の事情のない限り、両商標が類似しないことの最も確実な証拠である。取引の実情の外に立つ審査官、審判官の如きは、この最も確実な証拠の前にはまさに謙虚であるべきであって、これに反する自己の区々たる主観を貫くことを許されない。
これを外国の法制に照しても、ドイツ商標法第5条第3、4項は、審査官が出願にかかる商標が、既登録の商標に類似するものと思料した場合には、既登録商標権者にこの旨を通知し、商標権者が一定の期間内に異議の申立をしない場合には、審査官は自己の主観に拘泥することなく、出願の商標を登録しなければならないとしている。
最も緊切な利害関係を有する商標権者が知りつつあえて異議を申し立てないことが、両商標の非類似の最も確実な証拠であると主張するゆえんである。
6.原判決の違法
原判決は商標の類否の判断に関する最高裁判決、商慣習に違反し、商標法第4条第1項第11号の解釈、適用を誤ったものであり、上記法令の違背は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決は取消されるべきである。
以下各論において、その然るべき理由を述べる。
第2 各論(上告論旨)
1.原判決は、商標の類否の判断にあたり取引の実情を顧慮せず、単に裁判官の主観によったもので、最高裁判決に違反するのみならず、商標法の解釈を誤ったものである。
原判決はその理由中においてまず、本件商標と引用商標との外観について比較検討し、「本願商標と引用商標とは、これを相互に対比して部分的に観察するときは、本願商標にあっては、左右外側の直線がいずれも中央部分において切り離され、内側の平行線の中央部を細い横線で連結してあって、左右対称であるが、引用商標にあっては、右外側の直線のみ中央部が切り離されていて、左右非対称であり、内側の平行線の中央部を連絡する線はなく、また図形の線の太さにおいても、本願商標が太く引用商標はやや細い等の相違点がある」と率直に認定しながら、これに次いで「これを離隔的に観察するときは、実際の使用例を示す甲第7号証の2及び6から顕著に看取することができるように、全体として上記相違点に関する印象は薄れてしまい、本願商標及び引用商標のいずれからも、やや縦長の2つの六角形を左右に鎖状に組合わせた図形としての印象を与えられ、この点が強く記憶に止まるものであることを否定し去ることができない」とし、突如として「したがって、上記両商標は、外観上要部において類似の範疇を出ることのできないものといわざるをえない」との断定を下している。そして上記の引用部分が、原判決が上告人の請求を棄却した実質的理由のすべてである。
原判決が両商標を部分的観察によると相違点があるとしながら、離隔的観察によるときは外観上、類似しているとしたのは明らかな誤りである。勿論、商標の類否の判断は、時と所を異にしてなされる、いわゆる離隔的観察によるべきであるが、本件においては離隔的観察によっても原判決に指摘されたような各相違点は決して稀薄なものになるわけでなく、かえって一層その相違点が目立つものとなるのである。即ち、両商標は対比的ないし部分的観察によれば前述したような相違点が各々列挙されるのであるが、離隔的ないし全体的観察によっても両者は全く異なった印象を与えるものであり、原判決のいうような「やや縦長の2つの六角形を左右に鎖状に組み合わせた図形」という共通の印象は形成せられず、かかる認定こそ化学部門に属するこの種商品の取引に全然無縁の裁判官の観念上の所産であるといわなければならない。けだし「やや縦長の2つの六角形を左右に鎖状に組み合わせた図形」は、原判決もいうように化学記号ベンゼン核(六角形)を表わすものであるが、ベンゼン核の図形はこの種化学製品を取扱う会社の商標に好んで取り入れられるものであって、あたかも商号商標における株式会社、合名会社の文字と同様、それ自体は何ら商標の自他甎別の働きを有するものではない。従ってかかる商標法上は無意味ともいわれる共通点を抽出し、その故に両商標が「類似の範疇を出でることのできないもの」とした原判決は取引の実情を度外視して商標の類否を判断したものといわなければならない。
商取引の実情からみて、原判決のいう共通部分はこの種化学製品を取扱う会社の商標にしばしば用いられ、自他甎別の働きを持ち得ないものである以上、原判決が率直に認定した「本願商標にあっては、左右外側の直線がいずれも中央部分において切り離され、内側の平行線の中央部を細い横線で連結してあって、左右対称であるが、引用商標にあっては、右外側の直線のみ中央部が切り離されていて、左右非対称であり、内側の平行線の中央部を連絡する線はなく、また、図形の線の太さにおいても、本願商標が太く、引用商標はやや細い等の相違点」こそ、両商標の要部をなすものであって、この要部の相違する両商標が類似するものでないことは多くいうをまたないところである。
2.原判決は商取引上非類似である両商標を、ほしいままに「類似の範疇を出でることのできないもの」としたのは商標法の解釈を誤った違法があるものである。
いま両商標から受ける全体的な印象を説明すれば、本件商標は「上下に外方に向けて開いた鈎を有するやや縦長の2本の直線の束」と表現することができ、全体が肉太な直線で構成され、角張っており力強い動的な印象を与える図形を構成しているのである。これは、左右の切り離しがそれを見る者に錯覚を与え、上下に実際より遠く離れているように感じられるために、実際の印象としては六角形を組合わせたものというより鈎を組合わせたものとして印象づけられるからである。また、内側の平行線の中央部を細い横線で連結してあることも対比的観察によってはじめて指摘されうる些細な相違点というだけでなく、かえって、本件ではその横線の存在により全外の図形の印象を六角形というより鈎形というものに変えているのであり、より力強い動的な感じを全体の図形に加えているのである。これに対して引用商標は全体的に見れば、「やや縦長の2つの六角形を左右に一部が重なり合うように組み合わせ、そのうちの右の六角形の外側の直線の中央部が切り離されたもの」と端的に特徴を示すことができ、全体が細い直線で構成され、やや縦長となっているため丸味を帯びたやさしさを感じさせるもので静的な印象を受けるのである。これは図形としては基本的には六角形を2つ左右に並べたものとなっていて、右の六角形の外側の直線の中央部が切り離されている点は全体の図形の印象を変えるものではなく、また細い直線から成っていることはむしろ全体としての六角形の組み合わせという印象をそのまま維持せしめることとなっているためである。さきにも述べた原判決のいう「やや縦長の2つの六角形を左右に鎖状に組み合わせた図形」という印象は、引用商標からは或いは出るであろうが、本件商標は、むしろこれに遠い。これは本件商標としては対比的観察をすれば六角形を組み合わせたものという印象を若干受ける余地があるかもしれないが、観隔的観察によれば六角形を組み合わせたものという印象は全くなくなり、前述したような鈎の組み合わせという印象しか受けないこととなることを如実に示しているのであって、この点を看過した原判決は商標の類否の判定の基本において誤っているものといわざるをえないのである。
更に、原判決は前述した両商標の外観の類否の判断に続けて「証人Aの証言によると、本願商標は原告会社のイニシァルであるHを図案化した社標であることが認められ、また、原告の主張によると、引用商標もまた、オリエント化学工業株式会社の英文字の頭文字であるOとCとを組み合わせて図案化した社標であるというのであるが、これらのことは、いずれも商標を案出選定した者の主観的事情にすぎず、これを見る第3者においてもそのように認識するものとは断定し難く、むしろ原告会社及びオリエント化学工業株式会社のような化学工業を営む会社の製品に付せられた商標としては、ベンゼン核(六角形)の組み合わせを図案化した商標としての印象を受けることが普通であるといえよう。」としている。ベンゼン核を組み合わせた図形が化学会社の商標として特別顕著性を有するものでないことは既に述べたが、更に上記証人Aの証言によって明らかなように、本件商標が上告会社のイニシァルのHを図案化したものであり、引用商標がオリエント化学工業株式会社の英文字の頭文字であるOとCとを組み合わせて図案化したものであるという事実は、あくまでも両商標を離隔的観察をした場合の両商標から受ける全体的な印象を語るのに必要不可欠なものとして考慮されているのであって、これをただ単なる商標の案出の主観的事情とのみ片付け去るべきではない。かえってこれら両商標の案出の経過は、具体的な使用態様に顕著に現われ、両商標を全体的に観察した場合、その相違は一層明白となるのであって、これを単に商標案出者の主観的意図にすぎないとして、この商標の類否の判断に最も重要な意義を有する相違点を看過した原判決は、商標法の解釈を誤ったとの非難を免れることはできないものである。
3.原判決は両商標の類否の判断において、これを使用する商品の具体的取引状況に基づかないで判断をした誤りがあり、その結果、その類否の判断を誤ったものである。
商標法第4条第1項第11号の解釈において、そのリーディングケースが、最高裁判所昭和39年(行ツ)第110号、昭和43年2月27日第3小法廷判決であること及びその要旨が、商標の類否の判断はこれを使用する商品の具体的取引状況に基づいて判断しなければならないとしたものであることは、第1、総論2、リーディングケースにおいて述べたところである。
しかるに原判決はその理由において、「染料、顔料および塗料について、一般にデパート塗料店および文具店等において一般消費者を対象とする家庭用のものが販売されていることは、顕著な事実であり」、「原告会社の現在の生産および販売方針がそのまま永く続けられると認めうる証拠はないのみならず」、「専門業者の間においても、前認定の外形上の類似点の故に、本願商標と引用商標の付せられた各商品について出所の誤認混同を生ずるおそれが全くないとはいいがたい」として上告人の原審における本件商標及び引用商標の指定商品である染料、顔料及び塗料について、通常取引関係に立つ者は専門業者であって、一般大衆は極めて稀であるから、上記両商標は商品の出所に誤認混同を生ずるおそれはないとする主張を排斥したのである。しかしながら、原判決の上記のような商品の具体的取引状況に対する各判断はいずれも不十分なものであり、誤っているものと考えられるのである。
まず第1に、「染料、塗料について家庭用のものが一般消費者に販売されていること」については原判決のいうように争いようのない顕著な事実なのであり、原審においても証人Aの証言にも家庭用染料が一般消費者に販売されている事実が窺われるのである。しかしながら、例えば染料を例にとると、家庭用染料が一般消費者に直接販売されるという事実から直ちに本件の両商標について商品の出所の誤認混同を生ずるおそれがあると速断することはできないものと考える。蓋し、家庭用染料は極く限られた分野の取引であり全体の染料の取引に占める割合は僅少なのであり、しかも本件商標を使用する上告会社及び引用商標を使用するオリエント化学工業株式会社などの染料メーカーはいずれもその染料製品を一次問屋、二次問屋を通して最終消費者たる染色業者等に売却しているのであって、これら染料メーカーが直接、一般消費者を対象とした家庭用染料には全く関与していないからである。これらの事実は証人Aの証言から明らかであるが、更に同証言によればこれら家庭用染料は一旦、染料メーカーから問屋に販売された各種染料をその問屋で新しく調整配合し、問屋自体の銘柄で商標を変えてデパート等の小売店に販売されていることが認められるのであり、たとえ、上告会社の染料でも一旦問屋で配合されれば全く別個のその問屋の製品となるのであり、上告会社の商標はどこにも使うことができなくなるのである。これは同証言で繰り返し述べられているように染料という製品の特異性、即ち染料では色合いが重要な要素となっており、また一般消費者は染料を扱う能力を通常有していないことからくる取引の実情であり、これらを無視して単に染料の取引における極く一部分にしかすぎない家庭用染料のみを云々する原判決は明らかに不当な判断をしているのである。従って、染料の取引の状況としては問屋、染色業者等の専門業者が取引の相手方であり、これらの人々はいずれも染料の取引において個々の製品の色合いを慎重に配慮しながら売買をしているのであって、仮りに本件商標と引用商標とが外観上、若干の類似点があるとしても、商品の出所につき誤認混同を生ずるおそれはないものと断定しうるのである。まさに原判決はこの点において木を見て森を見ざるの誤りをおかしているといえよう。
すなわち、本件商標の指定商品のうちその一部に限られ、しかも実際の取引においては殆んど問題とするに足りないような僅かな量である家庭染料(顔料については、かかることすらない)を取り上げ、あたかもそれがために全体の指定商品の出所の誤認混同を来たすものであるかのように判断することは、最高裁判決のいう「その商品の取引の具体的実情に基いたもの」とはいい得ないばかりでなく、商標法第4条各号もそのような殆んど問題とするに足りない微量の、例外的な取引まで考慮して不許可事由を規定したものとは解されない。
次に原判決は「原告会社の現在の生産および販売方針が、そのまま永く続けられると認めうる証拠はない」としているが(この点が商標法の解釈及び最高裁判決に違背しているものであることは、項を改めて詳説する)、証人Aの証言によれば、前述したような染料製品の流通経路は現在の工業製品としての染料が出現した時以降ずっと同じ形態がとられており、問屋、染料業者等の専門業者は著しく専門化しており、新しい業者が参入しにくい業種であることが認められ、本件での具体的取引事情はむしろ将来に亘ってかなりの期間存続する固定的なものであると推測されるのであり、これに反する証拠は全く存しないのである。また、原判決が「専門業者の間においても、本願商標と引用商標の付された各商品について出所の誤認混同を生ずるおそれが全くないとはいいがたい」とする点は、全く事実に反するものであり、証人Aの証言、甲第10号証及び同第11号証によれば専門業者はいずれも染料の色合いに慎重に注意を払って取引をなしているのであり、商標のみで取引をすることはないことが認められるのである。そして、上告会社やオリエント化学工業株式会社と専門業者が例えば具体的に染料を取引する場合には注文を取交すときは製品を特定させて取引するわけであるが、その特定の方法としては製品名を、染料メーカーを表わす名称、染料の種類名、色を表わす名称という順に記載して特定させているのであって、そのうちメーカー名は染料の取引においては特に重要であり、同じ染料であるならば本来は同じ色合いを生ずべきであるのに、メーカーが違えば往々にしてかなり違った色合いに染まることがあるので、専門業者は努めて厳密に同一の色合いに染まる染料を求めて取引しているのであって、このような染料を得られないときは営業上莫大な損害を被ることが明らかにされており、その商品の選択には最高級の注意が払われるのである(このことは、原審における原告準備書面からも明らかである)。更に製品としての染料は特定の専門業者である一次問屋、二次問屋、染色業者等によって取引せられ、一般消費者には直接販売されることは殆んどないといえるのであり、証人Aの証言によればメーカーの数も比較的少なく、前述したようにその製品についてもメーカー名にかかる製品ということで明確に認識され取引されていることが認められ、従って取引をなす者が商品を商標の外観のみによってその商標を識別しひいて商品の出所を知り品質を認識するようなことは現実には全くないといえるのであって、本件において、本件商標と引用商標の付された各商品について出所の誤認混同を生ずるおそれはないものと結論づけうるのである。
4.原判決は商標登録許否の判断についての基準時の解釈適用を誤まり、その結果取引の実情に関する誤まった認定を前提として上告人を敗訴せしめた違法がある。
原審証人Aは、前項において述べたように、本件指定商品に関する詳細な供述をなし両商標が取引の具体的実情のもとにおいて決して出所の混同誤認を生ぜしめるおそれがないことを明白にしている。
しかるに原判決は同証言による認定に続いて、「原告会社の現在の生産および販売方針がそのまま永く続けられると認めうる証拠はない」と説示している。このことからみれば原判決は商標登録の許否の判断において、考察の対象となす商品の具体的取引事情は、現在かくありとするをもって足りず、将来も同様のものでなければならないことを要請しているものと解せられる。
しかしこのような原判決の解釈は、第1、総論4、“商標の類否判断の基準時”に記載した商標法上の原則に反するばかりでなく、最高裁判決の立場とも相反するものである。すなわち最高裁判決は、2つの商標を具体的取引の実情の下では非類似と判断した原審判決に対する上告審で上告を棄却した判決であるが、上記理由中では原審判決が認めた硝子繊維糸の取引の実情に関して、上告論旨は、それは実験則といえるほどの普遍性も固定性もないもので、過去の一時的変則的な取引状況であると主張したのに対してそれは「出願商標の出願当時およびその以降における硝子繊維糸の取引の状況であって、かつ、それが所論のように局所的あるいは浮動的な現象と認めるに足りる証拠もない」と判示したのである。これは明らかに一定時点で具体的取引状況を捉え、この時点で具体的事実として、商品の出所混同のおそれがなく、かつ、それを単なる一時的な現象とする反対の証拠がない限り、その出願商標を非類似として登録すべきものとする考えを明確に示しているのであり、本件取引の具体的事情こそまさにその通りであって、最高裁判決に従えば、当然に原判決とは反対の結論を得られた筈である。
原判決が商標法の解釈を誤り適用した、違法のものとして取消されるべきことは明らかであるといわなければならない。
5.原判決は経験則に違反して、商標の類否の判断をなした違法があるか、又は理由不備の違法があるものである。
(1) 本件商標が上告会社の社標(ハウスマーク)であることは原判決も認めるところである。ただ原判決は「両商標が外観上類似のものと認められる以上、それが社標であるからといって、双方の相違点が見る者に強い印象を与え、類似の印象を全く消し去ってしまうものと断定すべき根拠はなく、社標として著名であっても、同様に、相互に誤認混同を生ずるおそれがあることにかわりはないといわざるをえない」としている。
しかしながら、最高裁判決の示すように商標の類似とは、当該商品の具体的取引の実情のもとにおいて、その商品の出所の混同誤認を生ずるかどうかによって決すべきものであって、しかもある商標が社標であるかどうかは、商取引上それ以外の一般商標とは較べものにならないほどの高い「出所表示の機能を有しているのである。ポリタン又は薬寿等の一般商標によっては容易にその出所を知り得ない家庭薬品の購入者たちも、これに付したの社標を見れば、直ちにそれが武田薬品工業株式会社の製品であることを知り得るのである。原判決が本件商標が上告会社の社標であることを認定しながら、しかもこれについて何ら格別の考慮を払わなかったことは、社標が一般商標と著しく異なった意味を有するとの経験則を全然適用しなかった違法があるものである。
しかのみならず、原判決はその商品の取引の実情とは全然無関係に観念的に「両商標を外観上類似のもの」と独断し、本件商標が社標として著名であっても、この判断をかえることはできないとしているが、これは全く本末を顛倒した議論であって、まずそれが商品の取引の実情において最も重要な役割を果す社標であるかどうかを認定したうえで、はじめて両商標が類似するものであるかどうかを判断しなければならないのである。
両商標の類否をまず観念的に決定し、その後社標であることの効果を判断した原判決は最高裁判決の要請するところに違背するばかりでなく、名を「離隔的観察」に藉りるが、その実は「意匠的、機械的観察」の弊をそのままに示すものである。
(2) 商標の類否について商標権者の挙措の有する意義については、第1、総論5、“グッドウイルの侵害”の項において述べた。上告人の本件商標の永年にわたる極めて顕著な使用に対し、引用商標の商標権者たるオリエント化学工業株式会社(引用商標は同社の社標である)から何ら異議の申出もなかったことは原審弁論において、また証拠調べの結果に徴し、々論及せられ、また明らかにされてきたところである。そしてこのことは何ものにもまして両商標が類似しないものであることを、取引の具体的実例において証明しているものである。原判決がこの商取引上顕著な慣行について、一言半句も触れていないのは、この経験則を全然適用しなかったか、少くとも理由不備の違法をそなえるものである。
6.付言
あえて上告理由として主張するものではないが、本件について最後に留意をお願いしたいのは、上告会社は本件商標と同一の構成を有する商標について、第1、7、9及び34類においてそれぞれ商標登録を有しているが、そのうち第1類化学品等を指定商品としたものについては、その出願前に既にオリエント化学工業株式会社が引用商標と同一の構成のものについて同一の商品を指定商品として商標登録を受けていたのに拘らず(甲第22号証の1、2)、これを非類似として商標登録を受けたことである(甲第14号証の1、2)。
元来、第1類における商標の類否の判断は他の類別におけるよりも、それに属する商品に薬剤を含む関係上、より一層厳格になされるものであり、その審査基準に合致したということは看過することのできない事実なのである。本来、特許行政上の問題としては、より厳しい審査基準に合致した商標と同一構成の商標は他の類でもこれを統一して登録すべきものであり、たとえ特許行政とは独自の判断をなしうる裁判所であってもこの問題を決して無視してはならないのであって特許庁における審査の不統一は出願人の利益に統一して解決すべきものであると思料せられる。
上告人は原判決の結果によって社標としての本件商標の改廃すら考えなければならない立場に追い込まれた。しかしながらこの商標がすべての類別において登録を拒否されているならば格別、既に上述した4つの類別においては登録を許され(しかも審査基準の最も厳格である第1類は引用商標と同一の登録商標と対比の結果類似せずとして)、莫大な費用を投じてその宣伝に努めている今日、これを単に行政の不統一、裁判の独立の当然の結果としてあきらめ、これを放置するには、あまりに重大な問題であり、高価な損失であることを御留意願いたいのである。
以上